高田の歴史

高田の歴史


このページは、『高田の歴史』(平成30年7月 令和2年6月 大嶽祐二 著)をもとに、高田の歴史を紹介するものです。以下、同書からの引用については、著者 大嶽祐二氏の了解を得て行っています。

第一回 高田の由来

「 高田の由来
「高田」の地名は文字通り土地が高く、高いところに田畑があることからつけられた。高田の南に位置する日吉・三枚橋や、東に位置する下石田、中石田の地域に較べ、やや高い水田地帯をなしている。
高田には小字名で「竹之花」と称する小字名がある。「柳田國男」によると、竹之花は竹の鼻と同じであり、鼻は高いところを意味する「塙」からきているとのこと。したがって、太古の時代はこの付近一帯が自然堤防の微高地で、葦や竹で生い茂っていたと思われる。
昭和40(年代)の前半、岡宮のマンション経営者が言うに、マンション建設の基礎工事の時、地中に「葦」が多くみられたとのこと。また、子供のころ著者の家では、屋敷の鬼門に、他の家でも小規模な竹藪があったことを思うと、なんとなく「竹之花」という小字名も頷ける。

高田村の地名は江戸時代の延宝2年(1674年)「駿州駿河郡沼津領高田村検地帳」に初めて見ることができる。それ以前の時代では高田村の地名を確認することはできない。なお、高田の南隣に位置する「竹之岬」は竹之花の南側微高地の端に、岬のようにせり出していることから、竹の岬と称するようになったと言われる。
幕藩体制が終わり、明治4年に断行された廃藩置県によって新政府はそれまでの「藩」を廃止し全国に「府県」を設置した。県は「大区・小区」に分けられ、大岡村は「静岡県第一大区六小区」となった。事務所は明治9年高田村に置かれたが、なぜか事務所は設置後2~3年して今の大岡役場の位置に移転した。その理由は調べることが難しく残念ながら不明である。
この時、第一大区六小区の事務所で発行した明治10年10月29日付の「改正費」請取書がある。これは大区小区制が布かれた同時期の「地租改正」に係る事業費を名主として支払った請取書である。
明治7年に大岡七か村が一つにまとまり大岡村の発足となった。この時、大岡村は大字として地番が定められたため、高田村は大字として残らなかった。そのこともあって、昭和19年大岡村と沼津市が合併したとき、大岡が沼津市の大字となり高田は大字としてではなく、通称名として使われ現在に至っている。 」

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